言葉に関して「初めに言葉あり、言葉は神と共にあり、言葉は神なり」(聖書)、また古くは万葉集などで出てくる「大和の国は言霊の幸はふ国」といったことが想起される。言葉というものの何処かないがしろにできない重みを感じさせるのに充分である。私にはその意味を充分に理解できていないが、言葉の持つ重み、働きについて慧眼を開かせてくれる知見に触れることができた。それは表題の言葉と心と身体は相互に緊密な関係にあるということである。言葉→心→身体もあれば、身体→心→言葉もなりたつ。心と身体の関係においては、「人は嬉しいから、笑うのではない。笑うから、嬉しくなるのだ。」という現代心理学の知見にあるとのことだが、人間には「心が動く→身が動く」という性質だけでなく、「身が動く→心が動く」という性質も、同時に存在する。私たちは心→身体は理解し易いが、身体→心、言葉→心について軽視、ないしは無自覚ではないか。
身体→心の関係において座禅が想起される。本格的座禅の経験はないが学生時代に茶道をかじった経験からイメージできる。何時の間にか無心になり没入している自分を発見したことがあった。身近な例でも背筋を伸ばすだけでも心が整うこともある。また、部屋を片づければ不思議に勉強をしようという気が湧いてくるといった経験のある人も多いと思う。言葉→心についても、明るく元気な挨拶が相手のみならず自身にも大きな影響力を発揮する。高校野球真っ盛りの時期であるが、選手間の喉が枯れんばかりの腹の底からの「ファイト」の連呼は最後まで諦めない心の状態をつくりだす。身を整えること、挨拶をすることの意義は以上の観点から明らかである。私たち塾人はその意義を生徒に熱く語らなくてはならない。東セミグループが目指す学習環境は明るく元気な挨拶が飛び交う学びの場である。
*「人間を磨く」(光文社新書)田坂広志著から多大な示唆を受けた。
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