「しかし」の接続詞は論説文では逆説の接続詞といって前文を否定あるいはそれに疑問を投げかけ、著者の主張が展開される重要な言葉である。著者の言いたいことを掴むときには注意しなければいけない接続詞である。
しかし、これは重要なだけに使用する上で特に注意しなければならない。例を挙げると謝罪するときと、人を褒めるときである。謝罪したあと、「しかし」と言って言い訳、こちらの立場を弁明したら「しかし」の前の謝罪は吹き飛んでしまって、単なる言い訳としか受け取られないのである。学習塾というサービス業に従事して、ときには生徒、ご父母から厳しいお叱りを受けることもあるが、こちらに多少の言い分があっても、謙虚にうけとめ前向きな改善、提案でご理解いただけるよう努めるべきなのである。
もう一つは人を褒めるときである。成績が上がった科目を褒めたあと下がった科目、停滞している科目をさして「しかし、これが良かったらもっとよかった」では、正直なところ褒められた気がしないであろう。「しかし」を使わず、「大変良かった、今度はこの科目が上がるといいね」でとどめておきたいものだ。
褒めて伸ばす効用が喧伝されて久しいが、いざとなるとなかなか難しいのである。山本五十六連合艦隊司令長官の「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば、人は動かじ」の有名な言葉のポイントは最後の「褒めてやらねば」にある。前半は昔からある率先垂範の勧めであり、特にあたらしいものではない。
教育とは深遠なものであり、松下幸之助さんも晩年、松下政経塾をつくって国家百年の大計に立って人材の育成に取り組まれ、トヨタも近年学校経営に参画したところを見ると、人が最後に成し遂げたいことは個人であれ企業であれ人材育成としての教育ではないかと思っている。その教育の末端に連なる者として謙虚に、かつ矜持をもって新年に臨みたい。
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