先だって、森下典子著「日日是好日」(新潮文庫)読んだ。久しぶりのホームランといった読後感で何人かの知り合いに思わず紹介してしまった。テレビの書評番組でたまたま見て購入したのだが、今は紹介者に感謝したい。「日日是好日」とは中国の禅の書物「碧巌録」にある言葉で、掛け軸などによく見かける。内容は著者が二十歳から始めた茶道について、その時々に思ったこと、感じたことを素直に書いてあり、文章の見事さと相まって読者を引きつけてやまない。
茶道などの習い事でまず感じるのは、細かい決め事が多くその堅苦しさだ。それもその決め事の意味を初めに一つひとつ懇切丁寧に教えてもらえるわけでなく、成長するに従って突然その意味、理由が分かったりする。私たちは仕事を含めた日常の生活のなかで、その目的、理由、意味などが分からないと動けないことが多い。しかし茶道などの習い事はその対極にある。やりながら気づく、しかも頭ではなく体で覚える、これがその真髄といったところか。少なくとも私たちはそういう世界があるということを認識すべきだろう。毎度のことだが本の紹介の難しさを痛感する。ここで直接著者の言葉を引用する。
「教えること、教えないこと」(P.229)の一節である。
「さぁ、私もこれから、もう一席、お勉強してきましょう」
その老婦人は
去り際に嬉しそうにこう言った。
「お勉強って、本当に楽しいわね」
受験のための勉強をしてきた私とミチコには、八十過ぎの人と「お勉強」という言葉がどうしてもそぐわないものに思えた。
この世には、学校で習ったのとまったく別の「勉強」がある。あれから二十年が過ぎ、今は思う。それは、教えられた答えを出すことでも、優劣を競争することでもなく、自分で一つ一つ気づきながら、答えをつかみとることだ。自分の方法で、あるがままの自分の成長の道を作ることだ。
気づくこと。一生涯自分の成長に気づき続けること。
「学び」とは、そうやって、自分を育てることなのだ。
引き続き「雨を聴く」(P.208)から。
「日日是好日」の額は、初めて先生の家に来た日から、いつもそこに掲げられていた。
初めてお茶会に連れて行ってもらった日には、掛け軸に書かれていた。その後何度もこの言葉を見てきた。
ずっと目の前にあったのに、今の今まで見えていなかった。
「目を覚ましなさい。人間はどんな日だって楽しむことができる。そして、人間はそのことに気づく絶好のチャンスの連続の中で生きている。あなたが今、そのことに気づいたようにね」
そのメッセージが、ぐんぐん伝わって胸に響く。
二本の脚ですっくと大地に立って、全身に雨を受け、世界と対峙しているような気がした。
深く息を吸い、心の中ではっきりと思った。
(今この瞬間の感覚を、忘れずに生きよう!)
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