食事を頂くとき「いただきます。ごちそうさま。」を唱えている子供の割合はどれ位いるだろうか。
私の親は昭和の一桁で、もうすぐ八十歳になるが、この点厳しく姿勢も飯台の前で正座であった。
そのお陰で和室では胡坐(あぐら)をかくより、正座の方が楽なときがある。学生時代に東京で茶道を少し習ったが、正座が苦にならず助かった。
食事の前の「いただきます。」は単に食事を頂く、という意味でなく、「多くの生きとし生けるものの命を絶って我々人間は食を得て生きているわけで、それに対する感謝の意を表すものだ。」ということを聞いたことがあるが、なる程と思う。言わば我々は他の動植物の死という犠牲のうえに生かされていることになる。
先日、テレビでアフリカのサバンナに生きる動物の生態を観た。まず百獣の王ライオンがしとめた獲物を悠々と食べているところにハイエナが集団でその周りを徘徊し、そのうるささに嫌気がさしたライオンが放棄したあとハイエナが群がり、ジャッカルが隙を突いて獲物に与ろうとする。そして最後に禿鷲が骨だけ残しきれいに食べつくす。ナレーターの「サバンナにおける死で無駄なものは何一つない」というフレーズがやけに印象深かった。自然界における生命の循環をここでも見た気がした。
我々人間も多くの死のうえに生かされている。「いただきます。ごちそうさま。」はその事実に謙虚に感謝を表す言葉ではなかろうか。 このような言葉が言える人間から秋葉原の無差別殺人の犯人のような人物が生まれるはずもない。現代の若者にとって「死」といものは、それ程身近なものではない。何時か訪れるペットの死は唯一例外かもしれない。しかしこれとてペットを飼っていない人には無縁である。理科の授業でカエルの解剖が行われなくなって久しいと聞く。カエルの命の尊重という点からはそれも一つの結論かもしれないが、かえって生命の尊厳性に疎くなるのではないか。
人間の能力を人格能力と職務能力(学力含む)に分ければ、前者に関わる問題である。人格能力とぼしき職務能力は浅薄である。いよいよ中三生は七月下旬に二泊三日の夏期合宿が始まる。
寝食を共にすることで教えることもあるはずである。
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