東進衛星予備校の導入について、軌道に乗るまでは時間がかかったが、
高校生の動員に大きく寄与した。
小中学部から始まった東大セミナーが高校生を含む総合学習塾に成長できたのである。
いわゆる対象学年の垂直展開であるが、高校生を扱うということは進路指導、
教務力において大変さもあるのである。
衛星予備校導入後も当初は高校生向けの生授業も並行的に行っていた。
主に金沢大学の医学部生を講師として、学校対応の内容で行っていた。
しかし次第に衛星予備校に生徒が移っていった。
優秀な医学部生といえどもやはりプロの講師には歯が立たなく自然な流れだった。
小学校から東大セミナーで学んだ生徒が
初めて東大に合格した時の喜びは今も鮮明に覚えている。
衛星予備校の導入は大きなチャレンジであり試練であった。
一口に垂直展開と言っても、そこに多くのエネルギー、経営資源を費やした。
中学部は1990年代中頃に泉丘高校合格56名の実績を出した。
まだ金沢校、松任校、新神田校の3校で中3生が280人位しかいない時である。
合格率において最大ライバルを凌駕していたと自負している。
指導システムは進学塾として純化したもので、
科目別学力別クラス編成、成績順座席指定、テストごとのクラス替えなど、
都会の大手進学塾顔負けの運営システムであった。
学校では東大セミナーの何クラスに在籍しているかが生徒間の話題であったと耳にしていた。
東大セミナーの入会テストで2回不合格になり、
他塾に通い3回目でやっと合格した女子の強者もいた。
他塾の塾長から
「喫茶店に入ったらお母さん方が東大セミナーの話で盛り上がっていて羨ましかった」
という言葉を聞いたのもこの頃である。
しかし、今から考えると幾つかの問題点が浮かび上がる。
それは、垂直展開にエネルギー、経営資源を投下するあまり、
小中学生の水平展開が遅れたことである。
金沢市北部や南西部の進出が遅れたと言わざるを得ない。
あの勢いのある時に小中学部の充実を図っていればどうであったかの煩悶が暫くつきまとった。
しかし、人生良いことずくめということは無いのであって、
これはこれで良かったのではないかと思ったりもする。
当時、垂直展開と水平展開を同時に行うだけの技量もエネルギーも無かったとの思いである。
逆に、高校部の充実という困難な垂直展開を早くから行ったことが幸いして
今日の東大セミナーが在るといえるのではないか。
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