趣味が多彩で話題の多い人に逢うと羨ましいと思うことがある。しかしその思いが長続きしないところをみると、さほど強く感じていないということだろう。かつてスポーツではスキューバダイビング、ゴルフなどを少しかじったが続かなかった。能鑑賞、日帰り温泉、料理、ドライブなどは趣味というより、単なる息抜きといった方が良いだろう。趣味は所詮趣味といった考えがどこかにあり中途半端に終わっているのではないか。
幼い頃から父親から「仕事を趣味とするような人間になれ」と言われてきた。もしかしたらそれが潜在意識にあり、趣味に打ち込めない理由になっているのかもしれない。喜びも苦しみも悲しみも全て仕事の中にあり、それを通して始めて人間は成長するという考え方が背景にあるのだ。先日、新聞広告に魅かれて購読した村上龍著「無趣味のすすめ」に同じような考え方が披瀝されていた。少し長いが引用する。
「現在まわりに溢れている「趣味」は、その人が属する共同体の内部にあり、洗練されていて、極めて完全なものだ。考え方や生き方をリアルに考え直し、ときには変えてしまうというものではない。だから趣味の世界には自分を脅かすようなものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。真の達成感や充実感は多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。つまり、それらはわたしたちの「仕事」の中にしかない。」
中・高生の「部活」と「勉強」について誤解を恐れずに言えば同じ事ではないかと思う。
「勉強」できない理由に「部活」を挙げる生徒は毎年大勢居るが、それは「趣味」が忙しくて「仕事」ができないと言うのとさほど変わらないのではないか。部活が大義名分になっているのだ。高校では学習の単位取得は卒業の条件であるが、「部活」あくまでそうではない。理想は「勉強」と「部活」の両立であるが主客転倒は断じてしてはならないと思う。
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