皆さんこんにちは。東進衛星予備校 金沢南校の北川と申します。
矛盾。中国、楚の国にいた矛と盾を売る商人の故事に端を発する、故事成語の1つです。
現代においてはつじつまの合わないことに対して、「それって矛盾しているよね」なんて使い方をされる言葉です。例えば、「東大セミナーの本部が石川県にあって、かつ石川県に無い」という文章は、一般的な感覚に照らし合わせるまでもなく「矛盾しているな~」と思うでしょう。
それで、今回の記事では、この「矛盾」が持つ面白い性質について扱っていきます。
「矛盾」が面白い? なんだか不思議な響きですね。
どういうことか。例えば、こんな風に言われたらどうでしょう?
「東大セミナーの本部が石川県にあって、かつ石川県に無い」という前提から、「地球は平面である」という結論が導かれる。
いやいや、地球は球体だろう、というツッコミが聞こえてきそうですね。それから、「東大セミナーの本部が石川県にあって、かつ石川県に無い」って何? 意味不明過ぎない? と思う方もいそうです。
実際、地球は球体ですし、東大セミナーの本部は石川県にあります。でも、先ほど提示された「東大セミナーの本部が石川県にあって、かつ石川県に無い」という”矛盾を導く前提”があるならば、「地球は平面である」という主張は、実は正しいものになります。
ますます「はあ?」と思われるかと思います。その気持ちはよーく分かります。これを一般に証明しようとするのはちょっと大変ですから、噛み砕いて説明してみることにしましょう。具体的には、まず皆さんが日常的に使っている「推論のルール」のうちいくつかを抽象化して確認するところからです。
それでは始めていきましょう。
注意:この文章は初学者による誤解や間違いが含まれている可能性もありますので、友人にドヤ顔をする場合などはその点にご注意ください。
目次
2.矛盾への一考察~「Aであって、かつAでない」は矛盾を導く~
それはまず、「推論のルール」を確認していきましょう。
といっても、そんなに難しいことはしません。普段使っている言葉を、もうちょっと意識的にかっちり捉えてみようぜ、って感じです。
考えるのは2つ、「かつ」と「または」です。
例えば、次のような文章があったとします。
「僕は今朝犬の散歩をして、かつ、昼に会社でデスクワークをしたよ」
これは(ちょっと格式張っていますが)日常会話でも出て来うる表現です。この文章の構造を考えてみましょう。
この文章は、「僕は今朝犬の散歩をしたよ」という文章と、「僕は昼に会社でデスクワークをしたよ」という文章が、「かつ」という接続詞で繋がったものだと言えそうです。
要は、接続詞の「かつ」が使われた文章は、2つの文章が合体したものというわけです。
次に、先ほどの文章から「何が導けるか」を考えてみます。以下の会話文を見てみましょう。
甲さん「僕は今朝犬の散歩をして、かつ、昼に会社でデスクワークをしたよ」
乙さん「なるほど。だったら、君は今朝犬の散歩をしたというわけだ」
なんかアホっぽい会話ですが、乙さんの言っていることは正しいですね。
なぜなら、甲さんは「今朝犬の散歩をした」ということと、「昼に会社でデスクワークをした」ということを両方とも行っているのですから、当然片方だけを取り出してもやったことに変わりはないはずです。
少し抽象化すると、「AかつBである」という文章から「Aである」という文章を導いたわけです。これは皆さんの日常的な感覚からしても、多分妥当に感じると思います。
無論、「AかつBである」から「Bである」を導くことも妥当でしょう(先ほどの例であれば、乙さんが「だったら、君は昼に会社でデスクワークをしたのだな」と言っても問題ありませんね)。
そんなわけで、「かつ」で繋げられた2文は、取り出して1文を使って良いのです。
「かつ」のまとめ:
・「AかつB」という文章は、Aという文章と、Bという文章を、接続詞「かつ」で合体させて作ったものである。
・「AかつB」からは「Aである」と「Bである」を導いて良い。
次は、以下のような文章を考えてみましょう。
「僕は今朝犬の散歩をする、または、昼に会社でデスクワークをするよ」
先ほどと同様の文章ですが、繋がっている接続詞が「または」になっています。
「かつ」と同様、「または」が2つの文章を合体させる使われ方をするのだということが分かりますね。
「または」で繋がった文章はどう捉えたらいいでしょうか?
この文章については、多くの場合の解釈はこうなるはずです。
「ほーん。じゃあこの人は今朝犬の散歩をするか、昼に会社でデスクワークをするか、どっちか片方をやったってことだな」
ということで、「または」で繋がった文章は「繋がっている文章に書いてあることのうち、どちらか片方は導くことができる」という意味合いで使われることになるわけです[1]。
さて、「または」という言葉には、一見すると摩訶不思議な使い方があります。
例えば、以下の会話を見てみましょう。
甲さん:「僕は今朝、犬の散歩をしたよ」
乙さん:「なるほど。つまり君は今朝犬の散歩をしたか、または昼にブラジルへ旅行したんだな」
??? ブラジルへ旅行??? 乙さんは何を言っているんでしょうか。
落ち着いて「または」の用法を確認しましょう。「または」で文章が繋がっている場合は、「繋がっている文章に書いてあることのうち、どちらか片方は導ける」のでした。
今回乙さんが言っているのは
「甲さんは今朝犬の散歩をした」または「甲さんは昼にブラジルへ旅行した」
という内容です。そして、このうち片方である「甲さんは今朝犬の散歩をした」というのは、先ほど甲さん自身が発言していましたね。
だから、乙さんが「君は今朝犬の散歩をしたか、または昼にブラジルへ旅行したんだな」ということを導いたのは何も問題ない、ということになります。
少し抽象化してみると、「Aである」から「AまたはBである」を導くのは妥当、ということになります。このとき、BはAと全く関係がなくても良いというのがポイントです。
「または」のまとめ:
・「AまたはB」という文章は、Aという文章と、Bという文章を、接続詞「または」で合体させて作ったものである。
・「Aである」から「AまたはBである」を導いて良い(BはAと関係のない文章でもよい)。
これで、「かつ」と「または」についてはバッチリです!
次に、今とはちょっと性質が違う推論のルール、「選言三段論法」について確認しておきましょう。漢字が6つも並んでいて名前はいかついですが、そんなに怖い奴でもないので恐れる必要はありません。
早速、この論法の中身を確認してみましょう。
「選言三段論法」とは”「AまたはBである」かつ「Aでない[2]」”という文章から、「Bである」ということを導いて良い、とするルールのことである。
どういうことか分からなくても平気です。具体例を見てみましょう。
例えば、「甲さんの家では犬を飼っている、または猫を飼っている」かつ「甲さんの家では猫を飼っていない」とします。この時、「甲さんの家では犬を飼っている」という文章を導いても良い、というのが選言三段論法です。
順を追うなら、こんな感じです。
甲さん「うちでは犬か猫を飼ってるんだ」
乙さん「そうなのか。でも、君の家で猫は飼ってないって聞いたな」
甲さん「そうだね」
乙さん「じゃ、犬を飼ってるってことになるな」
こうして見ると、「あー、確かに」と思えるんじゃないでしょうか。
これは、さっきの「または」の用法からも分かるかもしれません。
「AまたはB」は、「AかBのどちらかは導くことができる」という意味で使われるのでした。ここで「Aではない(Aは導けない)」と言われた場合、「AかBのどちらかは導くことができる」のなら、「Bである」が導けないとおかしなことになります。
ということで、選言三段論法についてはこんな感じです。
「選言三段論法」のまとめ:
・”「AまたはBである」かつ「Aでない」”という文章から、「Bである」ということを導くルールを「選言三段論法」と呼ぶ。
「選言三段論法」の説明は以上です。意外と難しくなかったのではないでしょうか?
「かつ」、「または」、そして「選言三段論法」。この3つが、「矛盾」を理解するための大きな武器として役に立ってくれます。
次項では、今回相手取る「矛盾」を少し考えてみることにしましょう。
[1] この書き方だと「両方とも導ける場合は?」と思われるかもしれませんが、今回の記事ではどっちでもいいので触れていません。一応、論理学の上で「または(∨)」を扱う際は、両方とも正しい場合も全体として正しいとみなすことが普通なので、この記事中でもその立場を取っています。
[2] 今回は「”Aである“を導けない」ぐらいの意味で捉えれば充分です。本当は「Aでない」とは「Aであるならば矛盾を導く」ということである、という”ちゃんとした”定義がありますが、今回はそれを細かく説明すると重箱の隅をつつくだけなので避けます。
そもそも、「矛盾」って何なんでしょう?
辞書的な定義からは「つじつまが合わないこと」を指すと言えそうです。確かに、先ほどの「言っていることが矛盾している」というのも、「言っていること同士のつじつまが合わない」という意味で使われているのでしょう。
ここで話を終えても良いのですが、折角ならもう少し掘り下げてみましょう。つじつまが合わない、「矛盾」が導かれるというのは、つまりどういうときでしょう?
例えば、こんなやり取りを考えてみましょう。
母「あんた、台所のケーキ食べたでしょ?」
僕「いや、ついさっきまで部屋で寝てたんだ。ケーキなんて知らないよ」
母「ほんとに~? 玄関の靴、さっきまでなかった気がするけど?」
僕「あー、さっきまで図書館で勉強してたんだよ」
母「ちょっと! 何矛盾したこと言ってんのよ!」
ここで母が「矛盾している」と言っているのは、僕が「部屋で寝ていた」のに「図書館で勉強していた」と言っていることに対してです。もし僕の発言が2つとも正しいとするのなら、「部屋にいながら図書館にいた」ということになります。
もう少し掘り下げてみましょう。「図書館にいた」のなら「部屋にはいなかった」はずで、「部屋にいながら図書館にいる」というのはつまり、「部屋にいながら部屋にいない」という、何やらヘンテコな状態を指しているわけです。
なんだかいたずらにややこしくなったように見えるかもしれませんが、今回この記事で扱う「矛盾」という言葉には、実はこのことが深く関係しています。
ここで、他に「矛盾」を導く例を眺めてみましょう。
例えば、以下のようなやり取りはどうでしょうか?
証人「ええ。確かに旦那様は午後9時に、いつも通りお休みの挨拶をされていました」
探偵「つまり、午後9時には被害者は生きていたのですね」
証人「はい。まさか旦那様があんなむごい死に方をするなどとは……」
探偵「しかしですね、鑑識によれば被害者は午後8時には既に死んでいたはずなのです」
証人「そんな馬鹿な! ありえない、矛盾しています!」
この場合の「矛盾」は、「被害者(=旦那様)」が「午後9時に生きていた」という証言と、「午後8時には死んでいた」……つまり「午後9時には死んでいた」という捜査結果に対して使われています。これも、もしすべての証言が正しいとすると「被害者が午後9時に生きていながら、死んでいた」という奇妙な結果に繋がります。
他にも、多くの場合に使われる「矛盾」は、これと似た解釈で説明できるように思われます。要するに、「あることが起きている、かつ起きていない」ときに矛盾が導かれると考えてみるわけです。
こう考えると、冒頭で出したあの”矛盾した文章”への理解も深まると思います。
つまり、「東大セミナーの本部が石川県にあって、かつ石川県に無い」に対して「矛盾しているな~」と思ってしまうのは、まさに矛盾を導く文章の形(Aである、かつAでない)をとっているからなのです。
「矛盾」のまとめ:
・「AかつAでない」という形の文章は、矛盾を導く。
「矛盾」について、理解は深まったでしょうか[3]?
いよいよ次の節では、冒頭の”「東大セミナーの本部が石川県にあって、かつ石川県に無い」という前提から、「地球は平面である」という結論が導かれる。” を確認していきます。
[3] 実はこの説明だと「矛盾って結局何?」っていうことを何も説明していないのですが、ちゃんとやると最小論理を説明するところから始めることになるので今回は許してください。
では実際にやっていきましょう。
分かりやすいように、主要な文章には番号を振ります。
まず、前提はこれでした。
① 「東大セミナー本部は石川県にあり、かつ石川県に無い」
ここから、次の2つの文章が導けます。
②「東大セミナー本部は石川県にある」
③「東大セミナー本部は石川県に無い」
これは最初に置いた前提から「かつ」の性質を使って導かれているので、両方とも妥当だとみなします。
次に、②「東大セミナー本部は石川県にある」から、以下のような文章が導けます。
④「東大セミナー本部は石川県にある、または、地球は平面である」
ん? と思った方は2節「または」の項目に戻ってみてください(「Aである」から「AまたはBである」は導いて良いことになっています)。
さて、ここで文章④と③を並べて書いてみます。
④「東大セミナー本部は石川県にある、または、地球は平面である」
③「東大セミナー本部は石川県に無い」
よく見ると、④は「AまたはB」、③は「Aでない」という形になっています。ということは、「選言三段論法」を使って次のことが言えるはずです。
⑤「地球は平面である」
これで証明終了です。①という矛盾した仮定から、「かつ」「または」の性質と「選言三段論法」を使って、⑤という欲しかった結論を得ることができました。
つまり、冒頭で提示した文章
「東大セミナーの本部が石川県にあって、かつ石川県に無い」という前提から、「地球は平面である」という結論が導かれる。
これが、無事に示せたってわけです[4]! めでたしめでたし!
[4] 実は、今回取り上げた「Aである、かつAでない」という形の文章に限らず、「あらゆる形の矛盾した文章」から「任意の結論」が導けるということが知られています。
え~、あ~……ええ、理解できることと納得できることは違いますよね。実際、キツネにつままれたような、けむに巻かれたような、そういう感覚になった方も多いと思います。
一応、僕の可能な限り想定しうる反論にここで解答しておきます。
いや、違います。というか、これは「地球が平面である」ことの証明になっていません。
僕が言ったのは、あくまでも” 「東大セミナーの本部が石川県にあって、かつ石川県に無い」という前提から”「地球は平面である」と結論する方法です。
つまり、矛盾を導く前提から好き勝手な結論を導いているだけなので、本質的には益になるような情報は生まれていない、とも言えます。要するに「いや、東セミの本部は石川県に確実にあるからなあ……」と言ってしまえばそれで終わりです。
僕もそう思います。日常生活でこんなことを言う人がいたら「疲れてんの?」って思いますし。
ただ、今回は言葉が持っている一般的な性質を抽象化して、ある意味で記号的な操作を行うことによって前提から結論を導出しました。抽象化した後は、個々の文章が持つ意味を深く捉えないので、記号的な変形の結果は正しくても、気持ち悪さが拭えないのかもしれません。
過去には古典論理の”しっくりこなさ”に反発したのか、様々な形の論理学が生まれてきたという歴史があります。その”気持ち悪さ”を出発点にして新しい論理の体系を作ってみたり、或いは同じことを考えている人が既に作った、その”気持ち悪さ”を解消できるような論理の体系を探してみるのも良いかもしれません。
うーん……。突き詰めていけば、確かに誤魔化しています。
実は「選言三段論法」は「矛盾からは任意の文章を導くことができる」ということと実質的に同じこと[5]だと知られています。「選言三段論法」は、日常的な感覚においては正しい推論ですから、今回はこれを直感的に認めて話を進めました(インターネット上の似た趣旨の記事も、大体そうだと思います)。ですが、「選言三段論法」を認めることは、実は「矛盾から任意の文章を導くことができる」という事実を認めることと同じ[6]なわけなので、さっきやった証明は、単に回りくどく話を進めていただけとも言えるわけです。
別に間違ったことを説明したわけではないけど、誤魔化しはあったと言えるでしょう。もし詳しいことが知りたくなったら、是非参考文献を読んでみてください。
[5] 統語論的に見て、片方を公理とすればもう片方を導出できます。
[6] 完全に「全く同じ」ではないですが、これはニュアンスの問題だと思っていただければ。
今回は、矛盾した文章から任意の結論を導いてみました。
「論理」には、今回扱ったような形式的な論理に限らず、様々な論理の種類があり、それぞれに違った面白さがあるなあ、と今勉強しながら実感しています。
今回の参考文献は記事末尾に掲載いたします。皆さんも興味が湧いたら、是非一冊手に取って確かめてみてください。
それではまた来月お会いいたしましょう。お付き合いいただきありがとうございました。
前原 昭二、『記号論理入門 新装版』、日本評論社、2005、pp.37-57
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